従業員が現在の職場を退職して新たな事業を始める場合、他の従業員に対しても声をかけて、勧誘をすることがあります。在職中若しくは退職後に、他の従業員を引き抜く行為は適法なのでしょうか。
今回は、従業員の引き抜き行為について解説します。
目次
在職中の引き抜き行為
従業員の引抜行為のうち単なる転職の勧誘に留まるものは違法とはいえません。個人の転職の自由は最大限に保障されなければならないためです。
もっとも、従業員は、使用者に対して、雇用契約に付随する信義則上の義務として、就業規則を遵守するなど労働契約上の債務を忠実に履行し、使用者の正当な利益を不当に侵害してはならない義務を負っています。これを、雇用契約上の誠実義務をいいます。そのため、転職の勧誘行為を行う場合には、退職時期を考慮し、あるいは事前の予告を行う等、会社の正当な利益を侵害しないよう配慮すべきとされています。
具体的には、その引抜きが単なる転職の勧誘の域を超え、社会的相当性を逸脱し極めて背信的方法で行われた場合には、雇用契約上の誠実義務に違反したものとして、債務不履行あるいは不法行為となります。
社会的相当性を逸脱した引抜行為であるか否かは、転職する従業員のその会社に占める地位、会社内部における待遇及び人数、従業員の転職が会社に及ぼす影響、転職の勧誘に用いた方法(退職時期の予告の有無、秘密性、計画性等)等諸般の事情を総合考慮して判断すべきとされています。
東京地判平3.2.25労判588号74頁[ラクソン事件]
「およそ会社の従業員は、使用者に対して、雇用契約に付随する信義則上の義務として、就業規則を遵守するなど労働契約上の債務を忠実に履行し、使用者の正当な利益を不当に侵害してはならない義務(以下「雇用契約上の誠実義務」という。)を負い、従業員が右義務に違反した結果使用者に損害を与えた場合は、右損害を賠償すべき責任を負うというべきである。」
「ところで、本件のように、企業間における従業員の引抜行為の是非の問題は、個人の転職の自由の保障と企業の利益の保護という二つの要請をいかに調整するかという問題でもあるが、個人の転職の自由は最大限に保障されなければならないから、従業員の引抜行為のうち単なる転職の勧誘に留まるものは違法とはいえず、したがって、右転職の勧誘が引き抜かれる側の会社の幹部従業員によって行われたとしても、右行為を直ちに雇用契約上の誠実義務に違反した行為と評価することはできないというべきである。しかしながら、その場合でも、退職時期を考慮し、あるいは事前の予告を行う等、会社の正当な利益を侵害しないよう配慮すべきであり(従業員は、一般的に二週間前に退職の予告をすべきである。民法六二七条一項参照)、これをしないばかりか会社に内密に移籍の計画を立て一斉、かつ、大量に従業員を引き抜く等、その引抜きが単なる転職の勧誘の域を越え、社会的相当性を逸脱し極めて背信的方法で行われた場合には、それを実行した会社の幹部従業員は雇用契約上の誠実義務に違反したものとして、債務不履行あるいは不法行為責任を負うというべきである。そして、社会的相当性を逸脱した引抜行為であるか否かは、転職する従業員のその会社に占める地位、会社内部における待遇及び人数、従業員の転職が会社に及ぼす影響、転職の勧誘に用いた方法(退職時期の予告の有無、秘密性、計画性等)等諸般の事情を総合考慮して判断すべきである。」
退職後の引き抜き行為
退職後の従業員は、特約のない限り、雇用契約上の義務を負いません。そのため、退職後の従業員による引抜行為は、在職中の場合と比べ、特に違法性の高い態様でなされた場合に限り、違法とされます。
具体的には、社会的相当性を著しく欠くような方法・態様や社会通念上正当な競争手段を逸脱した違法な方法で行われた場合には、第三者による債権侵害として不法行為となります。
東京地判平5.8.25判時1497号86頁[中央総合教育研究所事件]
「会社の取締役又は従業員は、その退任後又は雇用関係終了後においては、その一切の法律関係から解放されるのであって、在任又は在職中に知り得た知識や人間関係等をその後自らの営業活動のために利用することも、それが旧使用者の財産権の目的であるような場合又は法令の定め若しくは当事者間の格別の合意があるような場合を除いては、原則として自由なのであって、退任ないし退職した者が、旧使用者に雇用されていた地位を利用して、その保有していた顧客、業務ノウハウ等を違法又は不当な方法で奪取したものと評価すべきようなときでない限り、退任ないし退職した者が旧使用者と競業的な事業を開始し営業したとしても、直ちにそれが不法行為を構成することにはならないものと解するのが相当である。」
東京地判平6.11.25判時1524頁62号[フリーラン事件]
「雇傭契約終了後の競業避止義務は、法令に別段の定めがある場合、及び、当事者間に特約がなされた場合に合理的な範囲内でのみ認められるものであり、右の競業避止義務が認められない場合は、元従業員等が退職後に従前勤務していた会社と同種の業務に従事することは、原則として自由である。しかしながら、元従業員等の競業行為が、雇傭者の保有する営業秘密について不正競争防止法で規定している不正取得行為、不正開示行為等(同法二条一項四号ないし九号参照)に該当する場合はもとより,社会通念上自由競争の範囲を逸脱した違法な態様で雇傭者の顧客等を奪取したとみれるような場合、あるいは、雇傭者に損害を加える目的で一斉に退職し会社の組織的活動等が機能しえなくなるようにした場合等も、不法行為を構成することがあると解すべきである。」
差止め
使用者は、従業員の違法な引き抜き行為が行われている場合には、当該行為の差し止めを請求することができます。
もっとも、既に引き抜き行為が行われて従業員が退職している場合には、当該退職した従業員を強制的に雇い直すことはできません。また、既に勧誘行為が行われている場合に、勧誘を受けた従業員が他社に転職することを禁止することもできません。
損害賠償責任
使用者は、従業員の違法な引き抜き行為が行われた場合には、債務不履行若しくは不法行為に基づき損害賠償を請求することができます。
損害としては、以下の①乃至③が想定できるとされます。
①当該従業員が在籍していたならば当該従業員が稼いだであろう利益(逸失利益)
②当該従業員が退職したことに伴い、新たに従業員を募集しなければならなくなったために必要となる採用コスト
③当該従業員に対してこれまで費やした教育研修費用
裁判例は、①のうち新たな従業員を補充するまでの間において得られるべきであった利益に限定して算定する傾向にあり、②③は認めない傾向にあります。
同業他社への就職と退職金
退職金の不支給は、不支給に関する就業規則等の規定があるだけでは足りず、退職金を不支給としてもやむを得ないような顕著な背信性がある場合に限られます。
具体的には、同業他社への就職により退職金が不支給とされるかは、不支給条項の必要性、退職に至る経緯、退職の目的、会社の損害等の事情を考慮することになります。
東京地判平23.5.12労判1032号5頁[ソフトウエア興業(蒲田ソフトウエア)事件]
「本件退職金返還条項は,退職金支払後に,〔1〕懲戒解雇事由が明らかになった場合,〔2〕退職後2年以内に会社の許可なく同業他社に就職し,又は同業の営業を行ったことが明らかになった場合には,支払った退職金の返還請求(〔2〕の場合は,支給された退職金と第3号退職者の退職金との差額相当分の返還を意味すると解釈するのが相当である。)ができる旨定めているが,まず,その効力を検討する。」
「原告の退職金規則を見ると,自己都合退職,会社都合解雇等の退職の事由により退職金の支給額に顕著な差異を設けており,原告における退職金が,功労報償的な性格を有している一方で,退職金の支給額は,退職時の賃金や勤続年数により左右されることからすると,賃金の後払いとしての性格も併せ有しているということができる。そうすると,退職金の返還は,労働者の権利に重大な影響を与えるものであると解すべきであり,単に懲戒解雇事由等が存在するというだけで直ちに退職金の返還が認められるわけではなく,更にそのことが,従業員のそれまでの勤続の功を抹消してしまうほどの著しく信義に反する行為がなければ,退職金返還義務を負わないという限定的解釈が必要となると解するのが相当である。」
「次に,〔2〕の場合に関していえば,被告らが主張するとおり,この条項自体が,同業他社への転職禁止の範囲が広く,代償措置も講じられていないという問題が存在し得るところである。しかしながら,退職金が功労報償的な性格を有する原告の退職金規則上,上記〔2〕の場合に退職金の一部の返還を求めることができると定めることが,特に不合理なものであるということはできないし,あくまで退職金の返還条件を定めたのみであって一般に退職後の競業行為を禁止して従業員の職業の自由を不当に拘束するものとまでは認められない。」